『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』自動車メーカースバルの歴史をつくった偉大な人物たち

タイトルを見て自動車メーカーのスバルの本であることはわかるが、「ん、ヒコーキ野郎?なんのこと?」となる人もいるのではないだろうか。

もちろん僕もその一人だったのだが、スバルはもともと中島飛行機という航空機メーカーだったのだ。
この本はそんな航空機メーカーがいかにして日本を代表する自動車メーカーになったのかを詳細に描いた激動のノンフィクションである。

この本はものづくりに携わっている社会人や将来会社を経営したいと思っている学生にオススメできる。
日本興業銀行(興銀)の支配下にあった時代のスバル(富士重工)は技術者集団の開発陣とエリート興銀経営陣の軋轢があり、それを描いた部分に特に共感を得る技術者は多いかもしれない。
また学生においては時代は違えど良い経営書としても刺激を受けることができるだろう。

中島飛行機創始者は中島知久平という男である。
1945年に戦争が終わる少し前から国家機関として軍用機を作っていた中島飛行機終戦後このままいくとGHQから解散の指令を受けてしまうという会社存続の危機があった。
そこで知久平は「国家機関ではない」と宣言し、富士産業という民間の株式会社に戻した。
そして自らは軍需相、商工相として入閣する。
表立って何かをすることは不可能だと悟り側面から支援することにしたのだった。
まだ日本は敗戦直後の混乱の中、知久平は動いたのだ。
こうして解散を逃れた中島飛行機は戦後から新しく富士産業としてスタートしていくのだが、まさにマイナスからのスタートだったようだ。
そんな状態から現在のスバルにいたるまでの歴史を知ることで逆境における考え方を学ぶことができるだろう。

会社を経営する人間にとって先見性は重要な資質の一つであると思う。
知久平という男はまさに先見の明があったといえる逸話がある。
中島飛行機に入社して戦後もスバルに勤めた太田氏との会話でのことだ。
敗戦の年、知久平は61歳で会社にはまだ多額の借金があるときだった。

「キミ、うちの会社の土地を処分しようとしとるそうだね」
「はい」
「いいかね。急ぐことはない。三二億の借金なんて、心配することはない。
どこかのちっちゃな工場をひとつ売ればすぐにそれくらいの金は返せる。
それよりも、第一次大戦後のドイツのことを知っとるかね。
私はあの頃、出張しとったけれど、ある人から聞いたんだ。
非常にインフレが昂進して、借金なんてすぐに返すことができたと。
真面目に働いて給料を貯めていたやつよりも、毎日、ドイツワインを飲んで、庭に空き瓶を放っておいたやつの方が金持ちになった。
物資が不足して空き瓶の値段が百倍、千倍になったからだ。
だからね、キミ、急いで土地を売ることはない。
そのうちに土地の値段は千倍、万倍になる。
みんなが給料をもらえる程度に土地を売って、あとは酒でも飲んで、庭に日本酒の空き瓶を放り投げておけばいいんだ」

その後、バブルの時代が来たときに太田は知久平の先見性に感心するが、その時すでに中島飛行機の土地はほぼ処分してしまった後だった。

スバルの歴史を語るうえで重要な人物はもちろん彼だけではない。
第三、十二章では自社の技術で純国産のスバル1500・スバル360を開発した百瀬晋六、第六章には会社に革命を起こし現在のスバルの礎を築いた二人の経営者、田島と川合。
さらに第八章では軽自動車からの撤退を決め、アメリカマーケットに向けた自動車開発を始めた当時の社長、森郁夫がいる。
どの人物も当時の会社の逆境や革命に尽力した。
そんな人物の言葉には心を動かされるものばかりである。

この本の著者は野地秩嘉氏で、人物ルポルタージュをはじめ、ビジネス、食や美術、海外文化などの分野で活躍中のノンフィクション作家だ。
この本に会社の歴史が膨大かつ詳細に描かれているのは、もちろん彼の取材の努力があってのことであるが、それ以前に彼の母親は富士重工時代の会社員だったので、当時の経営者の言葉などをよく母親から聞いていたそうだ。
現在の社員ですら知らないことも著者は知っている。
そんな人が書いているからこそ、このような素晴らしい本が生まれるのだと感じさせられる。
この本を読まないと知れないスバルのことがたくさんある。
ぜひ手に取ってスバルの世界にどっぷりと浸かってみてほしい。