『わかりやすさの罪』わかりやすいものが求められる時代に感じる違和感の正体

人に何かを伝えるときに考えることといえば、「相手にわかりやすいように」だとか「簡潔に」といったことであると思う。
僕はついつい前置きをダラダラと話してしまって話のオチを見失ってしまうことがよくあるが、話の面白い人というのはオチまで寄り道せずに簡潔に持っていくことが上手で、聞いていると笑ってしまうと同時に感心してしまう。

ここでも前置きが長くなってしまうとマズいのでさっそく本題に入ろう。

わたしたちの日常の会話はともかく、最近のテレビや本は、受け取る側にわかりやすく情報を伝えるのが当たり前のような風潮がある。
わかりやすくしようとし過ぎてバカにしているのかと思うようなテロップがとくにバラエティ番組に多い。
そんな「わかりやすさ」を追い求めることにハッキリと異論を唱え、バッサリと切り込んで読者に提示するのが本書のおもしろいところだ。

著者はフリーライターの武田砂鉄氏。
本書のタイトルである「わかりやすさの罪」について冒頭でこう書いている。

本書の基となる連載を「わかりやすさの罪」とのタイトルで進めている最中に、池上彰が『わかりやすさの罠』(集英社新書)を出した。
書籍としては、本書のほうが後に刊行されることになるので、タイトルを改めようかと悩んだのだが、当該の書を開くと、「これまでの職業人生の中で、私はずっと『どうすればわかりやすくなるか』ということを考えてきました」と始まる。
真逆だ。
自分はこの本を通じて、「どうすれば『わかりやすさ』から逃れることができるのか」ということをずっと考えてみた。
罠というか、罪だと思っている。
「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

本書は読む人によれば回りくどくて何を言っているかわからない、というような声も聞こえてきそうな内容である。
しかし本来、本というものは万人に受けるものである必要はなく、読者が書き手の言っていることに対して疑問を持ちながらわからないなりに考えて読んでいくものであるはずだ。

本書を読みながらそんなことを考えていると、逆にわかりやすいものとはなんなのだろうか、といった思いがこみ上げる。
わかりやすいと感じて理解したつもりになっていても、何を理解したのか説明しようとすると言葉にならなかったりする。
なんだか「わかりやすい」と「わかりにくい」ってそんなに違いはないんじゃないか、表裏一体なんじゃないかって気がしてくる。

僕は未経験のシステムエンジニアとして入社して数年経つが、最初の頃はプログラミングの勉強をしていく中で、分からないことだらけで焦っていた時に先輩社員によく『そのうち急にわかるようになっていくから今は「そういうものなんだ」という認識でいい』というようなアドバイスをよく頂いていた。
実際に勉強を進めていけば「あ、こういうことか」とふとした瞬間に自分の頭の中にスポっとはまるような感覚が訪れる。

なにか「わからない」というものに直面した時に必ずしもすぐにわかろうとしなくてもいいのではないかだろうか。
時間をかけて「わかった」という状態にしていくことが人生の豊かさなのかもしれない。
いや、一生かけてもわからないことが世の中にはあるはずだ。
所詮、「今すぐ役に立つもの」は「すぐに役に立たなくなるもの」である。

ここまでまさに前置きのようなことをダラダラと書いてきてしまい、たいして本書を紹介できていないような気がする。
しかし、本書を読むと一冊の本をかいつまんでで紹介するとか要約するということがどれだけ傲慢なことであるかに気づかされるのだ。

本書についてよくわからなかったかもしれないが、『結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない』のだとしておいてほしい。