日本のスポーツよ、立ち上がれ!『スポーツ立国論: 日本人だけが知らない「経済、人材、健康」すべてを強くする戦略』

2020年5月20日、全国の高校球児の夢である夏の甲子園大会が中止となった。

当事者である球児たちはもとより、毎年楽しみにしているファンや野球とともに高校3年間の青春を過ごした元球児たちのショックは大きなものであっただろう。

2020年に開催予定だった東京オリンピックも延期になり、プロスポーツ無観客試合という形で開幕した。
スポーツに対する考え方も楽しみ方も変わってきている現状がある。
スポーツの価値とはなんなのか、日本のスポーツはどうあるべきなのか今一度考える機会を与えてくれるのが本書である。

読者をひきつけるスケールの大きいタイトルであるが、そもそもスポーツ立国とはなんなのだろうか。

著者は冒頭でこのように述べている。

「スポーツ立国」。

本書で記していくのは、スポーツがもたらすさまざまな効能であり、主に経済的側面における欧米での成功事例をもとに「我が国をどのようにアクティベートするか」というアイデアや提言の数々です。

どれも机上の空論ではなく、世界各地で実際に起こっているファクトに基づきます。

もちろん、実現には多大な努力がともなうでしょうし、日本ではうまくいかないかもしれません。

でも、ラグビー日本代表のように、大谷翔平選手のように。

「できなかったこと」を「できるようにする」ことが人間の本質であると信じ、「スポーツ立国ニッポン!」を声高らかに提言したい、そのように思っております。

著者は法政大学でアメフトの全日本選抜チームの主将を務めたほどの実力者であり、現在はスポーツ用品やスポーツサプリメントの製造・販売を行う株式会社ドームのCEOを務める傍ら、法政大学アメフト部の総監督をしているスポーツ実業家である。

そんな著者が自身の会社をあげて膨大な時間をかけて調査し、スポーツの「3つの本質的価値」を定義している。

スポーツの価値①:地域経済・内需・雇用拡大

スポーツの価値②:未来を支える人材の育成・開発

スポーツの価値③:健康増進・社会保障費削減

しかし、日本では欧米に比べてこれらのスポーツの価値が十分に認識されていないという。
スポーツの価値②のいわば教育面は顕著に表れていて、アメリカの学校では運動部の活動が学校の正規の教育プログラムとして認められて単位が与えられるケースがあるほどであるのに対し、日本では平日の昼間に授業を抜け出さなければならないように試合日程を組んで開催されている大会もある。
それで単位は与えられないのに。

スポーツの価値①の経済面も教育と密接にかかわっている。
アメリカの学校では学生スポーツで稼ぎ、それを教育に還元しているからだ。
「スポーツは教育であるが、教育にはお金がかかる。そのお金はスポーツで稼ぎ出す。」
というのがアメリカの社会通念である。
アメリカらしい合理的な考え方だなあと感心してしまいそうになるがそれではいけない。
「スポーツだから商業化はしません」という謎理論で、部費や道具は家計に負担させるのが「教育」だとする日本のシステムを著者は問題視しているのだ。

本書を読めば読むほど、著者がどれだけスポーツを愛しているかがよくわかる。
スポーツの価値をこれほど熱心に考え、どう生かしていくかを考えている人間が日本の数あるスポーツ団体運営組織にどれだけいるだろうか。
日本のスポーツのあり方を痛烈に批判され、読む人によっては良い気持ちにならない箇所もあるかもしれないが、それは著者の日本のスポーツを変えようという気持ちがあってこそであると読んでいればわかる。

現場で汗をかいている方々を批判したいのではありません。

その反対です。

現場の汗を成果に変えるべく、本書の大きな総括として「スポーツの課題を、スポーツの課題のみとして解決しない」ことを明確に提起したいと思っています。

つまり「スポーツでくっきりよく見える日本の課題」という見方をすること。

はなはだ僭越ではございますが、これこそが『スポーツ立国論』の本懐です。

タイトルにもあるように本書で取り上げられているのは、日本人だけが気づいていない日本スポーツの大きな問題であり、それは体育会ビジネスパーソンも例外ではなく刺さるものばかりである。
本書を読まずに分かった気でいるのはかなり危険であろう。

本書を読めばスポーツに対する考え方がガラリと変わるはずだ。
今まで当たり前だと思っていたことがひっくり返る、そんな体験ができるのでぜひ手に取ってみてほしい。

 

『語学の天才まで1億光年』自動翻訳時代の語学の意味を問う


この本の印象

タイトルだけを見ると少し難しい内容に思えるかもしれないがそんなことはない。

著者の高野氏が世界のさまざまな辺境での語学体験エピソードを描いているのだが、そこで実際に現地で体験したエピソードがぶっ飛んでいて、とにかく面白い。読めば読むほどワクワクしてくる本だ。

どんな人におすすめか

外国語を勉強しているけどなかなか上達せずに悩んでいる人におすすめしたい。

まず、外国語を勉強するコツがところどころに散りばめられている。

それと、絶望的な状況の連続である高野氏の『世界の辺境エピソード』を読んでいるうちに勇気がもらえるかもしれない。

中身の紹介

世界の辺境エピソードが5章構成で描かれていて、それぞれ『インド篇』『アフリカ篇』『ヨーロッパ・南米篇』『東南アジア篇』『中国・ワ州篇』と実にバラエティに富んでいる。

中でも『アフリカ篇』は高野氏がリンガラ語学習で起こした語学のビックバン(?)についての記述があるが、ここは非常に言語学習における学びが多い箇所の一つである。

フランス語はコミュニケーションに必須だが、意志や情報を伝達するだけだ。いっぽう、リンガラ語での会話はコミュニケーションを十全にとるには程遠いが、地元の人たちと「親しくなれる」のである。

コミュニケーションをとるための言語と仲良くなるための言語。外国へ行って現地の人と交わるとき、この二種類の言語が使えれば最強なのだ。いわば「語学の二刀流」、これを使いこなす快感を知ってしまった。

私にとって「語学ビックバン」である。

この語学ビックバンによって高野氏は言語学習に対する意識が変わり、それまで英語やフランス語を学ぶ時に気にしていた「正しさ」はどうでもよくなり、現地の人に「ウケるかどうか」を大切にしていたという。

リンガラ語に出会うことによって、私の言語学習法は変わってきた。

英語やフランス語を学ぶときはいつも「正しさ」を気にしていた。正しい文法や正しい発音、正しい綴りなどが中心軸にあった。インドの旅において、実践的な会話では正しさは気にしなくていい、通じればいいとわかったはずなのだが、それでも勉強するときは正しさを追求してしまうのは日本の語学教育が体に染みついているからだ。

ところが、「ウケるかどうか」に集中すると「正しさ」はわりとどうでもよくなる。問題は「いかに現地の人っぽく話すか」ということに尽きるからだ。

(中略)

では、どうすれば現地の人っぽく話すことができるのか。それは現地の人の真似をするしかない。それも漠然とではなく、ホテルやバーや市場などで実際に会った人たち一人ひとりが、どういうときにどういうことをどんな調子で言うのかをよく観察する。そして、それをその人そっくりに、しかももっと大げさに喋るようにすることだった。つまり「物真似」である。これがいちばん「ウケる」という結論に達したのだ。

何事においても「学ぶときは真似ることから」とよく言うが、やはり言語学習において真似をすることは非常に重要であることがよくわかる部分である。

著者について

高野氏にとって語学とはアジア・アフリカ・南米などの辺境地帯で未知の巨大生物を探すとか、謎の麻薬地帯に潜入するといった、極度に風変わりな探検的活動で使うためのツールであると考えている。

そんな高野氏は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く。」というポリシーのもとで活動するノンフィクション作家で、この本を読めばこのポリシーに従っていることがよくわかるが、とにかく「ぶっ飛んでいる」。

なぜこの本を取り上げたのか

誰もがインターネットで自動翻訳ができる時代。ましてや、ポケトークのような翻訳ツールを使用して目の前にいる外国人ともある程度会話ができてしまう今、語学を勉強する意味はあるのだろうか。

また、高野氏は翻訳の機械やアプリが発達することで言語の壁が消えていくこの状況を半ば歓迎し、半ば恐れているという。

この『歓迎』と『恐れ』の意味、そして語学を勉強する必要性はこの本を読むことできっと見つかるだろう。

ぜひ一度、手にとってみてほしい一冊である。

センスメイキング

いま、本屋に行くと様々なビジネス本が置いてあるがその中でも、AIがわれわれの生活を脅かすとか、ビッグデータを駆使して世の中を知る、のような本がたくさんある。テクノロジー関連が現在もっともビジネスマンの関心事であるからであろう。僕はミーハーだからそんな意識の高いカッコいいビジネスマンが手に取った本を同じように僕も手に取ったりする。

 

そんな僕のことより今回紹介したいのは、そのような理系チックなビジネス書とは全く違った視点の主張をしている本である。理系の知識をつけるべきだ!というような主張の本が多い中、世の中を数字やモデルだけで捉えるのはやめるべきだ!とこの本は主張する。理系に固執していると、先の読めない「人」のあらゆる行動の変化に対して鈍感になってしまい、「人」の世界を感じ取る力を完全に失うことになるのだ。そして「人」にカッコをつけているのは「人」こそが本書のテーマだからである。

本書の副題(英語の原書)に「アルゴリズム」という言葉が入っているが、本書はアルゴリズムをテーマにしたものではない。コンピュータ・プログラミングでも機械学習の未来を描いた本でもない。本書のテーマは「人」である。もっと具体的に言えば、文化に光をあてたものであり、我々の時代の揺り戻しを描いた書籍である。 

 

本書では、アルゴリズム思考つまり数字やモデルだけでは解決できない問題もあることについて述べている。だから課題解決に頭を悩ませる経営者や、学生だったら何らかのサークルや団体のリーダーが読めば役立つ情報が得られるだろう。また、クリエイティブな仕事をしている人は新たなアイデアが浮かぶきっかけになるかもしれない。

 

さて、先の読めない「人」の世界を感じ取るためには文化的な洞察力が重要であると先ほど述べたが、具体的にどのようなことなのだろうか。そして、タイトルにあるセンスメイキングとはなんなのだろうか。

たとえば 皆さんもご存知のスターバックスは、まさにこの文化的な洞察力によって成功したのだという。

 35年前の北米のコーヒーといえば、昔からどの米国家庭にもある決まったブランドの豆を使った生ぬるいカップコーヒーくらいしかなかったそうだ。そこで同社に多大な功績をもたらしたハワード・シュルツ直感的にイタリアの言葉や文化に親しもうと思い立ち、イタリアで伝統的なカフェを学んでからスターバックスを立ち上げた。こうしてアメリカ人のニーズに応えてきたのである。

「人」を理解するのは簡単ではない。文字通り現実の世界に暮らす生身の人間を理解しようと思ったら、こうした文化的な知が必要だ。

(中略)

このように文化を調べ、全方位的に理解するには、我々の人間性をフルに活用しなければならない。自分自身の知性、精神、感覚を駆使して作業に当たらなければならない。特に重要なのは、他の文化について何か意味のあることを語る場合、自身の文化の土台となっている先入観や前提をほんの少し捨て去る必要がある。自分自身の一部を本気で捨て去れば、その分、まったくもって新しい何かが取り込まれる。洞察力も得られる。このような洞察力を育む行為を筆者は「センスメイキング」と呼んでいる。

 

 こうしたセンスメイキングをするには文学、歴史、哲学、美術、心理学、人類学……のような学問について知ることが大切なのである。これを人文科学の分野とされているのであるが、、、いや、自分で言っておいてなんだけどそんな難しく考えることはない。好きなクラシック音楽を聴くのもいいし、美術に興味を持つのもいい。やはり「人」が創ったものには「人」の心が感じられる。今日では、そういったものに触れることは無駄なことであるとされる世の中になってきているけれども、本当に重要なものとはそういうことなのである。なぜなら、我々は「人」と生活して社会を創り上げているのだから。

そして著者は「人は何のために存在するのか」という問いかけに明白な答えを持っている。

「人は、意味をつくり出し、意味を解釈するために存在するのだ」

そしてこの人文科学の分野は、こうした活動のための理想的なトレーニングの場になるのだ。2000年以上に及ぶ素材を活動の場として提供してくれるし、人文科学の作品は喜びや楽しみをもたらしてくれる。

こうしたスキルは、まさにセンスメイキングの中核をなすものであり、よそからの借り物で済ませられないスキルである。機械学習が、こうしたスキルについて洞察を得ることはない。スキルには、ものをみる構図が必要であるが、アルゴリズムには単に視点がないからだ。

ブラームスを聴くもよし、ミシシッピデルタブルースの偉大なシンガー、サン・ハウスのシンプルにして実にソウルフルな音楽を通じて1930年代に思いを馳せるもよし、シルヴィア・プラスの詩集をじっくりと味わうもよし。こういう活動を通じて、ベンチャー企業や社会事業の立ち上げ、あるいは今のポジションの充実につながる分析力を鍛えることになるのだ。それに、楽しく実行できるうえに、何といっても「真実に即している」。

 

この本を読んでぜひ新たな文化に興味を持つきっかけになったりしてもらいたい。

ぼくも「そんなことやってても意味ないじゃん」と周りから言われるようなこと

をやってこれから先のなにかにつながればいいなあ、と改めて思ったりした。

ぜひ手にとってじっくりと読んでみてほしい。

 

 

 

センスメイキング

センスメイキング

 

 

 

人生で大切なことは泥酔に学んだ

みなさんはお酒を呑み過ぎてやらかした経験はあるだろうか。

自慢じゃないが、僕は何度も経験済みだ。

そう、「何度も」である。つまり、僕は失敗から学習しないポンコツ人間なんだけれども、酔っぱらって気づいたら駅のホームに突っ立ってて財布やらノートパソコンやら大事なものが入ったバッグが手元になかったときはさすがに焦った。

就活中に、面接で「お酒で失敗したことある?」と聞かれて「ないですね」と即答できた自分が恐ろしい。

そんな時に出会ったのがこの本で、僕はワラにもすがる気持ちで買ってみた(そんなことよりまず禁酒しろ)。

 

学校の教科書に出てくるような偉人であっても、泥酔して周りに迷惑をかけて失敗しまくっていた人物がいる。この本は、そんな偉人たちのウソのような本当の泥酔話から処世術を学ぼうというものである。

 「泥酔に学ぶ」とは言っても、かなり親しみやすい文章でおもしろおかしく書かれていて著者の栗下直也氏も自身の泥酔にまつわるエピソードを織り交ぜて構成されている。

 

きっとあなたよりもはるかに酒を呑み、ありえない酔っぱらい方をしていた偉人たちの話を読むことで自分なんてまだまだ大したことはないと思えるかもしれない。だから今までのお酒の失敗を後悔している人や、昨日の酒の場を反省しながらも明日を元気に生きたい人たちに読んでもらいたい。著者は冒頭でこう書いている。

だが、悲しいかな、酒を呑んでしくじったところで人生は終わらない。いや、むしろしくじったところでどう振る舞うか、酒癖がヤバいのにどう生きていくかの方が実は重要だったりする。しかし、レールを外れた人は教訓を語る立場にないし、泥酔しながらも成功した人は多くを語ろうとしない。

この本に出てくる偉人は作家、政治家、スポーツ選手、俳優などと幅広いので人物伝として読んでも意外な発見があったり、様々な時代の人物が出てくるので当時の歴史背景を感じながら楽しめる。

 

さて、どんな人物が出てくるかというと、有名どころだと太宰治、第2代内閣総理大臣黒田清隆福沢諭吉平塚らいてう、などである。えっ、こんなすごい人たちが大酒飲みだったなんて、と思うほどそうそうたるメンツだ。

たとえば、太宰治は無銭飲食でお金を取りに行ってくるといって友人を置き去りにして、十日近くも行方をくらませた。見つかったときには将棋をしていたという。

しまいには、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」という謎のセリフを残したそうだ。僕よりもポンコツかもしれない。

ただ、僕のような凡人とは違うところが太宰治はこの時の心情を作品に昇華させているところだ。それが「走れメロス」である。

自分は将棋を指していて、走らずに座ったままだったわけだが、メロスを走らせちゃう。さすが太宰治というべきか。待つ身であった壇も「あれを読む度に、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである」と絶賛しているから、結果よければ全てよしといったところか。

また、黒田清隆は刀が趣味で酒を呑みながら刀を抜くというクレイジーな一面があったせいで、酔っぱらって妻を斬り殺した疑惑をかけられたし、「批評の神様」と呼ばれた評論家の小林秀雄は一升瓶を抱えて、水道橋駅のホームから落下した。

みんなぶっ飛んでいる。だいたい、妻を斬り殺した疑惑をかけられる人がどうして総理大臣になれたのだろうか、と思う。

 

僕は麻雀が好きなので、「ミスター麻雀」と呼ばれた伝説の雀士、小島武夫のお酒にまつわるエピソードをこの本から少し引用して紹介したい。

1970年代に最も人気を誇っていた麻雀。そんな麻雀ブームの真っただ中に麻雀プロとして深夜番組などに出演していたのが小島武夫である。小島の著書『ろくでなし 伝説のミスター麻雀、酒と女とカネの無頼75年』には「酒を呑むようになってからいままで、ひと口も飲まなかった日は記憶にない」という。晩年には酔っぱらって転倒し、鎖骨を骨折したこともあるが懲りずに呑んでいた。酒に溺れることについて小島はこんなことを言っている。

「酒に溺れるべからず」と世間ではよく言われるが、俺は逆だと思う。

酒にはとことん呑まれ、とことん溺れたほうがいい。そうじゃなきゃ、アルコールが入っている意味がない。〈中略〉酔い潰れると、身体は最悪な状態になるが、不思議なことに恐怖心が薄れ、あとから自分でも驚くような度胸が湧いてくるのだ。

 なかなかの名言ではないだろうか。僕はこの言葉のおかげで泥酔した次の日の朝も後悔で頭を悩ませることなく過ごせそうである。

 

難しいことは考えず、 ただこの本を開いて偉人たちの泥酔っぷりに圧倒されてしまえばいい。きっと何か大切なことを教えてくれるはずだ。

 

さあ、あなたも泥酔に学ぼう。

 

 

 

 

 

人生で大切なことは泥酔に学んだ

人生で大切なことは泥酔に学んだ

 

 

 

 

 

DEATH「死」とは何か

 あなたは「死」について考えたことがあるだろうか。

 

ぼくは小さいころ、なかなか眠りにつけないときにこのまま眠っている間に死んでしまったらどうしよう……なんてことを考えていたような気がする。

死んでしまったらどこへ行ってしまうのか。生まれ変わって全く別の人間として新しく人生を送るのか。そもそも死って何だろうか。いくら考えても答えにはたどり着けないが、誰もが一度は考えたことのあるテーマではないかと思う。

 

ぼくたち人間にとって「死」は切り離すことのできない問題であるといえる。

ほとんどの人が、死は悪いものであると(もちろんぼくも)思いこんでいる。では、どうして死は悪いものでありうるのかを考えたことのある人はあまりいないのではないだろうか。

死に関して何が悪いのかを見極めて、どうして死が悪いものでありうるのかを理解するために本書ではゆっくりと、300ページ以上にわたって丁寧に説明してくれる。

 

300ページ以上、というとなんだか敬遠されてしまうかもしれない。けど安心してほしい。この本はイエール大学シェリー・ケーガン教授による実際の講義に基づいて作られており、話し口調で書かれているのでよく頭に入ってくる。死とは何か、死は悪いものなのか、永遠に生きるのはいいことなのか、自殺は許されるのか、など、死について考えるときに避けて通れない具体的で大切な問題が、入門レベルの学生にも十分理解できる言葉で取り上げられている。

 

「死」をあまり身近に感じることのない10~20代にこそ読んでもらいたい1冊だ。「死」をテーマにしたこの本ほど年齢を重ねるにつれて読んだときの思いや感じ方が変わるものはないだろう。

 

 

「死ぬのが怖くない」と思っている人はあまりいないように思う。

誰もが「死」を恐れ、普段はそれを意識しないけれどそうした人生を送っている。

しかし、著者は死を恐れることについてこのように言っている。

言うまでもなく、死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜがひでも手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。それはあまりにも恐ろし過ぎる。

だから私たちは、それについて考えまいとする。身の毛がよだつようなことなので、仮に死について考えたら考えたで、不安と恐怖と心配に呑み込まれる。

また、これが生と死という現実に対して人が示しうる唯一の分別ある反応なのが、火を見るよりも明らかに思えてしまう。

人生は信じ難いほど素晴らしいから、どんな状況に置かれていても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなに良いか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえないと考えるわけだ。

私はこれをすべて否定する。この一連の信念は広く受け容れられているかもしれないが、(ほぼ初めから終わりまで)間違っていると主張してきた。

魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。(中略)私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。

そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。

(中略)

私たちが現在のような死に方をするのは残念ではないなどと言おうとしてきたわけではないことは、わかってもらえていればと願っている。

不死について論じたときに主張したように、人生が価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が私たちにあったほうが、間違いなく望ましいだろう。

少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れすぎる。だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。実際には、不死は災いであり、恵みではない。

そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でぞっとするものと捉えるのは適切でない。適切でないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ。
 

著者がこのように主張するまでのプロセスをぜひ本書を読んで知ってほしいと思う。この本は結論よりも過程のほうが圧倒的に重要だ。

 

 

 

死はたいてい突然に訪れる。だからとても別れが寂しい。

 人によって生きていられる年月が違うことに無力さを感じながら、一生懸命に生きることを忘れないで生きていきたい。

自分にとって死とは何なのか。あれこれ考えを巡らせながら読んでほしい。

 

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

 

 

禁煙セラピー

タイトル通り、禁煙の本だ。僕もこの本を読んでタバコをやめたのだが、「どうしてやめたの?」と聞かれることが多いのでこの本を紹介することにした。

あなたはどうしてタバコを吸っているか考えたことがあるだろうか。

おいしいから?

リラックスできるから?

手元・口元が淋しいから?

ホントにそれは正しいだろうか。

これらの理由はすべて喫煙者の幻想なのだ。ゆっくりとていねいに「タバコを吸う必要がない」ことを理解させてくれる本だ。

 

著者は冒頭で自分のことをこのように説明している。

私は三三年もの間、どうしようもないへビースモーカーだったのです。タバコをやめる直前は、多い日で一〇〇本、少ない日でも六〇本は吸っていました。

禁煙は何度も試みました。いいときで六か月禁煙したこともあります。しかしそのときもイライラするばかりで、タバコを吸っている人の近くに寄っていっては煙を吸い込もうとしたり、列車に乗ってもわざわざ喫煙席に座る始末でした。

 

このような状態から著者は催眠療法でタバコをやめ、今では禁煙コンサルタントとして何千という人々の禁煙を支えるまでになっている。本気で禁煙を考えていて今までに何度も禁煙に失敗している人におススメできる。今までやめたいと思いながらもなかなかやめられなかった人でもこの本の内容をよく理解すれば、もしくは著者の指示に従えば必ずタバコをやめられるのだ!

 

禁煙したくても失敗してしまう人はこう思うだろう。

「禁煙は難しい!」

どうして「禁煙は難しい」と感じるのだろうか。禁煙はそこを理解することが大切なのだが、この本では「簡単にやめられる」と著者はいう。

私の「簡単メソッド」はこうです。まず、やめたい理由をすべて忘れてください。そしてタバコの問題に面と向かい合い、次の問いを自分に投げかけます。

●何のためになるのか?

●本当に楽しんでいるか?

●大金を払ってこんなものを口にくわえでむせ返る必要があるのか?

タバコは何の役にもたたない。これは素晴らしい事実です。タバコには利点より欠点の方が多いと言っているのではありません。タバコには利点など一つもないということなど、吸っている人でもわかっていますよね。ただ一つ利点があるとすれば、それはつきあい上の助けになるということでしょうか。しかし最近では喫煙者の間でさえ、タバコは非社会的と見なされるようになってきました。

 

喫煙者は何かにつけてタバコを吸うことを正当化するが、それはすべて虚構であり幻想なのだ。その幻想をこの本が打ち破ってくれる。そしてその幻想を打ち破ったとき、もうタバコを吸いたいと思わなくなるだろう。

 

禁煙どうこうよりも、普通に本としておもしろい。超ヘビースモーカーだった人がいまでは禁煙コンサルタントになって「私の話を理解できれば禁煙できるよ」と言っているのだ。「は?」となりそうなものだがそれをグッとこらえて読んでみてほしい。禁煙を考えていない人でも考え方を変えてくれるかもしれないし、視野が広がるかもしれない。自分と反対の立場の気持ちを考えることはいろんなことをするうえで大切なことだと僕は思う。

 

 

ちなみに僕はこの本をどこで知ったかというと、「サクッと起業してサクッと売却する」という本(一番下に載っけてる)でも紹介されていたからだ。この本もなかなかぶっ飛んでいるから興味があればぜひ。

 

 

 

禁煙セラピー

禁煙セラピー

 

 

サクッと起業してサクッと売却する 就職でもなく自営業でもない新しい働き方

サクッと起業してサクッと売却する 就職でもなく自営業でもない新しい働き方

 

 



人工知能の核心

将棋の羽生善治九段が先月23日に行われた対局に勝って通算1433勝となり、歴代最多勝利記録に並んだ。前記録保持者よりも21歳若く、この数字に到達しているから凄まじい記録であることがわかる。

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これは、そんな羽生さんがNHKスペシャルでの取材を通して人工知能の核心に迫る本だ。

 

「アハ体験」でおなじみ脳科学者の茂木健一郎氏はこの本をこう評している。

これは、名著である。

まず、羽生善治さんの人工知能についてのユニークな分析、洞察がある。時にテクニカルな細部にわたり、興味深い。しかも、随所に、オリジナルに発想がある。研究者ならば、プロジェクトの「種」のようなものを拾うことができるだろう。

 

羽生さんは将棋だけでなく様々なことに造詣が深いことも知れる本だ。そのさまざまな視点から人工知能を解説していってくれるので、とてもわかりやすい。人工知能の入門書として読むのもいいのではないかと思う。

 

将棋というものは、相手が指す手を読まなければならない。羽生さんは30分〜1時間程度で1000手先まで読むときもあるらしい。

棋士は対局のとき、大まかに3つのプロセスで将棋を考える。

まずは「直感」。これは今までの経験や学習の集大成が瞬間的に現れたもので、この直感をもとに平均80通りあるひとつの局面からパッと2.3手に絞っていく。

次は「読み」。相手の先の手を予想してシミュレーションしていく作業だ。しかし、指し手の可能性は掛け算で増えていき、膨大な数の可能性を考えなくてはならなくなるので人間にとってこれは現実的ではない。

そこで3つ目の「大局観」だ。具体的な一手から離れ、全体を見ることが極意だという。そして序盤から終盤までの流れを総括して、先の戦略を考えるのだ。この部分はこれまでの対局の経験値が活かせるので羽生さんは若い頃と比べて「大局観」に力を傾ける比率が高まったそうだ。

対して人工知能はというと、超大な計算力で「読み」を行い「評価関数」といわれる、その局面の形勢を評価するアルゴリズムを使って最善の一手を選ぶ。このような人間と人工知能の違いについて羽生さんはこう主張している。

 ここで人間にあって人工知能にはないのが、、手を「大体、こんな感じ」で絞るプロセスです。棋士の場合には、それを「美意識」で行っていますが、人工知能にはどうもこの「美意識」にあたるものが存在しないようです。

それは一体、なぜでしょうか。

私はその理由は、人工知能に「恐怖心がない」ことと関係していると考えています。

第一章でも少し触れましたが、人工知能はただただ過去のデータにもとづいて、最適解を計算してきます。そのため、人間の思考の盲点になるような手を「怖いもの知らず」で平然と突いてきます。そんな危険な手をなぜ選ぶのかと驚くことさえあります。

こういう、人間の思考の死角や盲点のようなものは、どうも私には、防衛本能や生存本能に由来しているように思えてなりません。人間は、生き延びていくために、危険な選択や考え方を自然に思考から排除してしまう習性があるような気がします。

(中略)

私は、人工知能が恐怖心を覚えるようになったときが、本当の恐怖かもしれません」と冗談めかして言うことがあるのですが、それは人間にとっても得体の知れないものになるからです。

羽生さんは人工知能がこれからもどんどん強くなっていくことを否定することなく、これからの人工知能のあり方を見据えていることがわかる。

 

ところで、羽生さんは対局時の寝癖がトレードマークなので対局を見る機会があれば是非注目してほしい。将棋が強くてお茶目だなんて世の女性のハートをわしづかみしているじゃないか!

……でも結婚して奥さんがいるし基本的に弟子はとらない主義らしい(笑)

 

まだバリバリの現役なのでこれからも記録を更新し続けて、将棋界を盛り上げてくれることだろう。期待して羽生さんの将棋と寝癖に注目していきたい。

 

 

人工知能の核心 (NHK出版新書 511)

人工知能の核心 (NHK出版新書 511)