『アート思考』ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法

近ごろビジネスマンの間でアートに対する興味が生まれているらしい。

最前線で働くビジネスマンはアートとビジネスに共通する部分を見出しているようだ。
そこで、アートとビジネスに共通するものはあるのか、ビジネスにアートをどのように応用できるのか、という疑問に「現代アート」の歴史を通じて答えてくれるのが本書である。

凝り固まったアイデアしか浮かばず、思考が行き詰まることが多くなったビジネスマンや、何か常識的でない別の視点から物事を考えたい経営者にオススメできる。
アートとは常識にとらわれずにクリエイティブな発想をすることが大事であり、そうして仕事を切り開いていくアーティストから学ぶことは少なくないはずだ。

著者は、今では世界的なアートスポットとして世界中の人々が訪れる「直島アートプロジェクト」の草創期にアートの経済的な価値を経営層に理解してもらうことや、金沢で規模縮小する伝統産業・工芸を振興するための国際展やアートフェアの立ち上げを行い、文化と経済の間という難しいビジネスの現場での経験がある人だ。まさにアートとビジネスの関係性をよく知る人物である。

さて、このようにビジネスとつながる部分が多いように思えるアート思考であるが、アート思考から学びを得るときにはビジネスとの決定的な違いに注意する必要があるようだ。

アートに求められるのは、経済的・社会的成功ではなく、やむことなき自己探求をし続けることです。
社会に対する問題提起、つまり新たな価値を提案し、歴史に残るような価値を残していけるかどうかという姿勢を極限まで追求することが、アーティストの願望なのです。

これをビジネスの考え方と一緒くたにしてしまうと、アート思考の本来の意味が得られず、アーティストの能力が低く見積もられてしまうことに著者は懸念を感じている。
本書では、著者と付き合いのある世界的アーティストたちに共通する見方やアートに対する姿勢を紹介しながら「アート思考」の本質を伝えてくれる。

いま僕たちは何かわからないことがあってもすぐにインターネットで調べればたいていのことは知ることができる。
しかし、その便利さがゆえにわからないことに対して「感じる」「考える」ということが抜けてしまうことが多くなっていないだろうか。
わかりやすさが重視される傾向にある現代において生まれるのは僕たち情報の受け手の思考停止なのだ。

『金持ちがやっている10の習慣』のような本を読むことも完全な思考停止状態である。
すぐに役立つものは、すぐに役に立たなくなる。

アートも同様のようだ。

アートに触れることにより、自分自身が変わっていくような体験は、もしかすると五年後、十年後にストックされてきた知識が、ふと何かと結びつくことでようやく実感できるレベルなのかもしれないのです。
アートと接して得られる効果は、いわばあなたという人間の中に澱のようにたまっていき思考や人格に深く影響を与えるものです。
それは、即効性こそないものの、あなたを確実に人間的な成長へと導くでしょう。

IT社会によって人工知能が僕たちの生活に浸透し複雑な世の中になっている今、「わからないもの」について深く考える機会が少ないことが本書を通して感じられた。
本書を読み、アート思考の本質を掴むことで「わからないもの」に対してどのように向き合えばよいか知ることができるだろう。

『ドナルド・トランプ 世界最強のダークサイドスキル』常軌を逸したアメリカ大統領の「現代マキャベリズム思考法」

「憎まれっ子世にはばかる」ということわざがあるが、まさにこのことわざを体現している代表的な人物と言えるのがアメリカ大統領ドナルド・トランプ
どうしてあのような男に大国アメリカの大統領が務まるのかと思っている人は僕も含めたくさんいるだろう。

普段からトランプの言動に注目していたわけではないが、この前Twitter新型コロナウイルスのことを「Chinese Virus」と表現した時はさすがに「こいつヤベェ」と思ったし、思わず笑ってしまった。

そんな彼がどうしてアメリカ大統領として権力の座に居座ることができるのか。
適当なことを言っているように見えて実は人々の心に突き刺さる最強の悪のリーダーシップが潜んでいるのだと著者は言う。
常軌を逸した言動の数々に笑ってしまうこと間違いなしだ。

本書はリーダーシップを発揮しなければならない機械が増えてきた30代前後の会社員のような方にオススメできるかもしれない。
トランプのハチャメチャなやり方がきっと役に立つはずだ。

さて、トランプの常軌を逸した言動とはなんなのか。
堂々と嘘をつき続けろ!というタイトルから始まる第1章はトランプが巧みに?嘘をつきまくって支持者のハートをつかんでいることがわかるし、第2章ではトランプが自分のことを誰よりも優秀で、世界一偉いと思っていることがよくわかる。
本の終盤では、自分にとって利用価値のある者(国)に対してはとことんアメを渡し、思い通りに動かないヤツには徹底的にムチをたたく…というような政治のやり方をしていることがわかるだろう。

とにかくトランプは嘘をつく。
自分の利益のためであればどんな嘘でもつくような男なのだ。
そんなトランプの一面がよくわかる部分があるので引用する。

超富裕層を引き寄せるためにトランプは手段を選ばなかった。
イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃がトランプタワーの部屋の購入を考えているという噂を、バロンという偽名を作って自分でマスコミに流した。
もちろん、根も葉もない嘘だが、英王室がコメントしなかったためお咎めを受けずに済んだ。

「ちょっとした誇張に害はない。それを俺は誠実な誇張(truthful hyperbole)と呼んでいる。」

ベストセラーになった1987年出版の『トランプ自伝』の中で、トランプは臆面もなくそう述べている。
どこが誠実なんだ!

……というか、それのどこが「ちょっとした」誇張なんだ!

しかし、トランプはただやみくもに嘘をついているわけではないようである。
著者によると、「ほら吹き理論(big mouth theory)という立派な理論に基づいているという。

そんな理論は聞いたことがない?そんなはずはないだろう。
「嘘も100回言えば真実になる」というあれだ。

なんだ、そんなことかと馬鹿にしてはいけない。

この理論はプロパガンダの天才と呼ばれたナチスドイツの悪名高き宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスが生み出したもので、今でもPRや心理学でも頻繁に使われている手法である。

もともとのドイツ語を直訳すると、「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にその嘘を信じるだろう」。
トランプはこれを誠実に(?)実行しているだけだ。

専門用語では「単純接触効果(mere exposure effect)」という。
広告のキャッチフレーズはその最たるもの。
単純なメッセージを何度も何度も聞かされているうちに私たち善良な市民の脳裏に焼き付いて、あなたも私も不要なモノまで買わされてしまう。
トランプは、選挙期間中にこの悪魔的手法で、まんまと共和党政治家と有権者を手玉にとったわけである。

有名な "Make America Great Again"(アメリカをふたたび偉大な国に!)がその代表格だ。
「古き良きアメリカを取り戻せ」という単純なスローガンが、厳しい経済状況に置かれた中西部や南部の白人ブルーカラーのような人々に特に受け入れられたのである。

そしてトランプはやられたら必ずやり返す。
決して屈しないのである。
トランプの話術はプロレスのようだと著者は言っている。
常に敵をつくって暴言で熱戦を演出する。
大統領選の共和党予備選ではトランプ流毒舌が炸裂したそうで、その中でも特に「ちんちん話」はおもしろい。
トランプの「ちんちん」の大きさが共和党大統領討論会の争点にまで発展してしまった(なぜそんな話になってしまったかはここでは割愛しよう)。

この本を読んでいると、「そんなことを言っていたのか!トランプむちゃくちゃだな!」と思うことが何度あったかわからないくらいにトランプの言動が本書にはちりばめられている。
でも、読み進めていくほどにトランプ流のダークサイドスキルに納得してしまうはずだ。
ぜひ本書を読んで自分のダークな部分を引き出してみてほしい。

『LOONSHOTS ルーンショット クレイジーを最高のイノベーションにする』

「クレイジー」という言葉は普段あまりいい意味で使われることは少ない。
それなのにその「クレイジー」を「最高のイノベーションにする」というのだから、タイトルからかなり惹きつけられる本である。

クレイジーで誰からも相手にされないけれど世の中を変えるような画期的なアイデアのことを「LOONSHOTS(ルーンショット)」といい本書ではこのルーンショットがこれまでの歴史の中でどれだけ我々の生活を変えてきたのか、そしてどれだけ大事なことなのかを400ページ強にわたって説明されている。

誰からも相手にされないようなクレイジーなアイデアが、つぶれないで成功までたどり着くためには周りの人間(特に上層部)が大事になってくる。

だからこの本はそれなりに組織の中で上位にいる人たちに特に読んでもらうべきであると思う。

プロローグにはこの本のの内容があらかじめ説明されている。

ポイントはこの3つだ。

1 最も重要なブレークスルーは「ルーンショット」、すなわち誰からも相手にされない、一見ばかげたアイデアやプロジェクトから生まれる。

2 そうしたブレークスルーをテクノロジーや製品や戦略に転換するには、大規模な集団が必要である。

3 チームや企業など、何らかのミッションを持つ集団の行動に相転移の科学をあてはめることで、ルーンショットを素早く上手に育てるための実践的ルールが明らかになる。

この本は大きくPART1・2・3に分かれて構成されており、PART1では上記ポイント「1」にあるような一見ばかげたアイデアやプロジェクトから生まれたブレークスルーの具体例を紹介している。

PART2ではポイント2にある「大規模な集団」がなぜ必要なのかを「相転移」という科学を使った具体的な例(結婚、森林火災、テロリスト)を出して説明する。
相転移」とは、温度が変化するだけで液体が個体になるような突然の変化のことを指している。
この「相転移」をコントロールできればより革新的なチームや会社をつくることもできるのだ。

PART3では歴史的な観点からルーンショットを上手に育てていくことが最も重要であると述べられている。
中国とインドは紀元500年から1500年くらいまでの約1000年もの間、世界の経済を支配していた。
技術・軍事・政治分野の数多くの進歩は中国で最初に起きたにも関わらず、なぜ17世紀の科学革命や産業革命はヨーロッパで起きたのか。
そこにはルーンショットを育てる「ルーンショット養成所」の存在があったからこそなのである。

最後に、まだこの本を読もうかどうか迷っている人に、解説の冒頭部分を引用してダメ押ししたいと思う。

また、とてつもなく、とんでもない「イノベーション」の本がアメリカからやって来た。
サクッと読めば、「まあ、これまで言われてきたようなことに新しいキャッチフレーズなる『ルーンショット』をくっつけただけ」の本のように見える。
しかし、よく読み込んでいくと、これは単なるビジネス書にとどまらず、膨大な科学的・歴史的知識と国家論・産業論をベースにした「国家・社会の科学技術戦略のあり方を問うた」書であることがわかってくる。
しかも、この書物自身が著者の言うルーンショットでさえある。

この法政大学大学院教授・一橋大学名誉教授の米倉氏による解説もかなり読みごたえがある。
日本の企業向けにこの本からどのようなことを学ぶべきかを書いていたり、ルーンショットをどのように落とし込んでいくかをわかりやすく解説されているので最後まで楽しめる本である。

ぜひこの機会にじっくりと読み込んでほしい一冊だ。

 

あなたが○○で死ぬ確率はどれくらい!?『もうダメかも――死ぬ確率の統計学』

一度「面白そう!」と思った本はためらうことなく買うことにしている。

しかしばかり今回この本は買おうかどうか少し迷ってしまった。

税込3960円……高い。

それだけ素晴らしい情報が詰まっているのだろうと思い切って購入。

……期待は裏切られなかった。

500ページほどもあるハードカバーの本から圧倒的な情報量で様々なリスクについて書かれている。

本書ではリスクには2つの顔があるとして『無感情で型にはまった計算に徹する顔』と『人間くさい希望と恐怖に満ちた顔』であるという。

この二つを一度に見る、というのが本書の普通ではない目的だ。

リスクというものを語るときに欠かせないのが数字であるが、それだけではなくリスクにまつわる人とその物語をみせてくれるのが本書の特徴といえる。

1から27章に分かれてリスクを分析し、「マイクロモート」と「マイクロライフ」という2つの単位を使ってわかりやすく述べられている。

「マイクロモート」というのは死亡確率100万分の1のことで、リスクを一貫性のある尺度で微小な率ないし1日当たりの率に変換したものだ。
普通に生活して過ごす1日のリスクは約1マイクロモートで、そんな普通の日に命に関わる恐ろしい出来事が起こる確率は100万分の1ということである。

イギリスの本なのでイギリスのデータばかりだが例えば散歩43キロ、バイク運転11キロ、鉄道12000キロの移動で1マイクロモート。
出産は120マイクロモート、スカイダイビング10マイクロモート、小惑星が飛んできて死ぬ確率は世界で生涯を通して1マイクロモートだそうだ。

では「マイクロライフ」はどうだろうか。
これは、肥満のような慢性的なリスクを表すときに使われている

成年の人生を100万等分したとしよう。
マイクロライフとは等分された1個のことで、持続時間は30分である。
この長さは、若年成人には平均100万”30分の寿命が残っている、という発想に基づいている。

30分という塊は1日に48個ある。

これを人生の持ち分として好きなことに好きなように使えると考えてみよう。

青年人生全体分としてこの小さな塊が100万個あって、それぞれが30分に値し、自由に使えるのだ。

野球中継を見る?ポンと6マイクロライフが出ていき、戻ってこない。

ただただ普通に過ごしていてもマイクロライフは減っていくし、身体に悪いものを食べたり不健康なことをするとどんどん減っていく。

人生の残りの持ち分をどのようなスピードでつかっているかがよくわかるリスクの単位なのである。

本書ではこの二つの単位の違いをこのように説明している。

バイクに乗って死ななかった場合、マイクロモートはご破算となり、翌日はゼロからスタートする。

それに対し、1日中たばこを吸い、ポークパイを食べて生きている場合、マイクロライフの消費は積算される。

毎日買っているくじが永遠に有効というようなもので、当たる確率がどんどん高まるのだ。

この場合は当たってほしくないわけだが。

『確率とはある意味、人間がこれからも存在するであろうことの確からしさにも似たものだけど、その確からしさが誰についてのことかは何も教えてくれない。
』と著者は述べている。

つまりこの本が読者に教えてくれるのは僕たちに関するごく一部のことなのかもしれない。

もっともらしくこの本ではリスクについて書いてあるが、それでも自然のことや経済・ライフスタイルのことはリスク以外にも様々な価値観を含めていかなければ説明することは出来ない。

あなたはリスクにどんな気持ちで向き合っているだろうか。

人によってリスクの捉え方は様々である。
どこまでいってもそれは何が正解かは結局わからないだろう。
だからこそ、この本を読んでその様々なリスク観に触れあい、考えるのもいいかもしれない。

明日あなたの身に何かが起きるリスクは……?

『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』自動車メーカースバルの歴史をつくった偉大な人物たち

タイトルを見て自動車メーカーのスバルの本であることはわかるが、「ん、ヒコーキ野郎?なんのこと?」となる人もいるのではないだろうか。

もちろん僕もその一人だったのだが、スバルはもともと中島飛行機という航空機メーカーだったのだ。
この本はそんな航空機メーカーがいかにして日本を代表する自動車メーカーになったのかを詳細に描いた激動のノンフィクションである。

この本はものづくりに携わっている社会人や将来会社を経営したいと思っている学生にオススメできる。
日本興業銀行(興銀)の支配下にあった時代のスバル(富士重工)は技術者集団の開発陣とエリート興銀経営陣の軋轢があり、それを描いた部分に特に共感を得る技術者は多いかもしれない。
また学生においては時代は違えど良い経営書としても刺激を受けることができるだろう。

中島飛行機創始者は中島知久平という男である。
1945年に戦争が終わる少し前から国家機関として軍用機を作っていた中島飛行機終戦後このままいくとGHQから解散の指令を受けてしまうという会社存続の危機があった。
そこで知久平は「国家機関ではない」と宣言し、富士産業という民間の株式会社に戻した。
そして自らは軍需相、商工相として入閣する。
表立って何かをすることは不可能だと悟り側面から支援することにしたのだった。
まだ日本は敗戦直後の混乱の中、知久平は動いたのだ。
こうして解散を逃れた中島飛行機は戦後から新しく富士産業としてスタートしていくのだが、まさにマイナスからのスタートだったようだ。
そんな状態から現在のスバルにいたるまでの歴史を知ることで逆境における考え方を学ぶことができるだろう。

会社を経営する人間にとって先見性は重要な資質の一つであると思う。
知久平という男はまさに先見の明があったといえる逸話がある。
中島飛行機に入社して戦後もスバルに勤めた太田氏との会話でのことだ。
敗戦の年、知久平は61歳で会社にはまだ多額の借金があるときだった。

「キミ、うちの会社の土地を処分しようとしとるそうだね」
「はい」
「いいかね。急ぐことはない。三二億の借金なんて、心配することはない。
どこかのちっちゃな工場をひとつ売ればすぐにそれくらいの金は返せる。
それよりも、第一次大戦後のドイツのことを知っとるかね。
私はあの頃、出張しとったけれど、ある人から聞いたんだ。
非常にインフレが昂進して、借金なんてすぐに返すことができたと。
真面目に働いて給料を貯めていたやつよりも、毎日、ドイツワインを飲んで、庭に空き瓶を放っておいたやつの方が金持ちになった。
物資が不足して空き瓶の値段が百倍、千倍になったからだ。
だからね、キミ、急いで土地を売ることはない。
そのうちに土地の値段は千倍、万倍になる。
みんなが給料をもらえる程度に土地を売って、あとは酒でも飲んで、庭に日本酒の空き瓶を放り投げておけばいいんだ」

その後、バブルの時代が来たときに太田は知久平の先見性に感心するが、その時すでに中島飛行機の土地はほぼ処分してしまった後だった。

スバルの歴史を語るうえで重要な人物はもちろん彼だけではない。
第三、十二章では自社の技術で純国産のスバル1500・スバル360を開発した百瀬晋六、第六章には会社に革命を起こし現在のスバルの礎を築いた二人の経営者、田島と川合。
さらに第八章では軽自動車からの撤退を決め、アメリカマーケットに向けた自動車開発を始めた当時の社長、森郁夫がいる。
どの人物も当時の会社の逆境や革命に尽力した。
そんな人物の言葉には心を動かされるものばかりである。

この本の著者は野地秩嘉氏で、人物ルポルタージュをはじめ、ビジネス、食や美術、海外文化などの分野で活躍中のノンフィクション作家だ。
この本に会社の歴史が膨大かつ詳細に描かれているのは、もちろん彼の取材の努力があってのことであるが、それ以前に彼の母親は富士重工時代の会社員だったので、当時の経営者の言葉などをよく母親から聞いていたそうだ。
現在の社員ですら知らないことも著者は知っている。
そんな人が書いているからこそ、このような素晴らしい本が生まれるのだと感じさせられる。
この本を読まないと知れないスバルのことがたくさんある。
ぜひ手に取ってスバルの世界にどっぷりと浸かってみてほしい。

 

『わかりやすさの罪』わかりやすいものが求められる時代に感じる違和感の正体

人に何かを伝えるときに考えることといえば、「相手にわかりやすいように」だとか「簡潔に」といったことであると思う。
僕はついつい前置きをダラダラと話してしまって話のオチを見失ってしまうことがよくあるが、話の面白い人というのはオチまで寄り道せずに簡潔に持っていくことが上手で、聞いていると笑ってしまうと同時に感心してしまう。

ここでも前置きが長くなってしまうとマズいのでさっそく本題に入ろう。

わたしたちの日常の会話はともかく、最近のテレビや本は、受け取る側にわかりやすく情報を伝えるのが当たり前のような風潮がある。
わかりやすくしようとし過ぎてバカにしているのかと思うようなテロップがとくにバラエティ番組に多い。
そんな「わかりやすさ」を追い求めることにハッキリと異論を唱え、バッサリと切り込んで読者に提示するのが本書のおもしろいところだ。

著者はフリーライターの武田砂鉄氏。
本書のタイトルである「わかりやすさの罪」について冒頭でこう書いている。

本書の基となる連載を「わかりやすさの罪」とのタイトルで進めている最中に、池上彰が『わかりやすさの罠』(集英社新書)を出した。
書籍としては、本書のほうが後に刊行されることになるので、タイトルを改めようかと悩んだのだが、当該の書を開くと、「これまでの職業人生の中で、私はずっと『どうすればわかりやすくなるか』ということを考えてきました」と始まる。
真逆だ。
自分はこの本を通じて、「どうすれば『わかりやすさ』から逃れることができるのか」ということをずっと考えてみた。
罠というか、罪だと思っている。
「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

本書は読む人によれば回りくどくて何を言っているかわからない、というような声も聞こえてきそうな内容である。
しかし本来、本というものは万人に受けるものである必要はなく、読者が書き手の言っていることに対して疑問を持ちながらわからないなりに考えて読んでいくものであるはずだ。

本書を読みながらそんなことを考えていると、逆にわかりやすいものとはなんなのだろうか、といった思いがこみ上げる。
わかりやすいと感じて理解したつもりになっていても、何を理解したのか説明しようとすると言葉にならなかったりする。
なんだか「わかりやすい」と「わかりにくい」ってそんなに違いはないんじゃないか、表裏一体なんじゃないかって気がしてくる。

僕は未経験のシステムエンジニアとして入社して数年経つが、最初の頃はプログラミングの勉強をしていく中で、分からないことだらけで焦っていた時に先輩社員によく『そのうち急にわかるようになっていくから今は「そういうものなんだ」という認識でいい』というようなアドバイスをよく頂いていた。
実際に勉強を進めていけば「あ、こういうことか」とふとした瞬間に自分の頭の中にスポっとはまるような感覚が訪れる。

なにか「わからない」というものに直面した時に必ずしもすぐにわかろうとしなくてもいいのではないかだろうか。
時間をかけて「わかった」という状態にしていくことが人生の豊かさなのかもしれない。
いや、一生かけてもわからないことが世の中にはあるはずだ。
所詮、「今すぐ役に立つもの」は「すぐに役に立たなくなるもの」である。

ここまでまさに前置きのようなことをダラダラと書いてきてしまい、たいして本書を紹介できていないような気がする。
しかし、本書を読むと一冊の本をかいつまんでで紹介するとか要約するということがどれだけ傲慢なことであるかに気づかされるのだ。

本書についてよくわからなかったかもしれないが、『結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない』のだとしておいてほしい。

 

『禍いの科学』正義が愚行に変わるとき

それってホントに正義なのか!?

本書を読んだ2020年を振り返ると、そんなことを考える機会が増えた1年だったことを思い出す。

日本では1回目の緊急事態宣言が発表されて人々が家の中で過ごす時間が増えたとき、「自粛警察」というものが流行語になるほど話題になった。

「自粛警察」とは政府や自治体の要請に反して外出する人や営業する店舗を過度に批判したり、嫌がらせをしたりするような人たちを指す造語で、SNSでも正義を振りかざしてこの類の愚行をする人を見かけた方も多いだろう。

こういうことがあると「正義」と「愚行」は正反対の言葉のようで、ほんとうは紙一重なのかもしれないと思う。
行きすぎた正義は愚行に変わるのだ。

だがそれは一体どんなタイミングで変わるのだろうか。
また、正義のつもりが愚行になってしまうといったことが起こらないためにはどんな注意をするべきだろうか。

そういうことを歴史の物語に基づいて我々に教えてくれるのが今回紹介する本書、「禍いの科学」である。

この本のおもしろいところは、現在であれば全く信じられないような科学が信じられてきた歴史があることを知ることができるところにある。

しかもその結果、それが本書のタイトルのように「禍いの科学」になってしまったケースが取り上げられている。

正義によって考えられたトンデモ科学が信じられてしまったことでそれは愚行になり現在に至るまでその問題が残っているケースもあり、「過去のことだ」と手放しには笑えないのだ。

そんなエピソードから多くの教訓を得られる一冊になっている。

ぼくが本書からもっとも大事にしたいと思った教訓は、

すべてのものには代償があり、ただ一つの問題はその代償の大きさだけだ。

である。

代償はどうしても避けられない。何かを得るためには何かを失わなくてはならないのだということを改めて感じさせられた。

このような教訓がどのようなエピソードから得られるのか。

それはぜひ本書を手にとって体験してほしい。